けやき並木

 

 

 

大学通りの木の名前だそうだ。

 

気づかなかったし見ていなかった。

 

 

 

 

 

自分の情けなさがすごい。

表したくない と 表せない

はちがう。

ちがうと思っていたけど、やっぱりそんなことはなかった。

それを思いしらされる瞬間がいちばん凍る。

 

 

 

 

今日も、今日だって、

表したくないわたしで居てしまった。

 

その時はその時でそれがいいと思っている、

というのがまた悔しい。

あとから振り返ると、そんなんじゃないのにな、と思う。

思うことしかできていない。

 

今日はプリンを見つけたから

もういい日になるぞと思って過ごせていたんだけど、そんなことーはなかった。

 

 

そんなときは、ぜんぶの居方がだめ。

 

 

それに、同じ場で面していないのに

表したくないのね、

と含みのある言い方もこわくて

そういうことじゃないことを返してしまった。

 

 

 

そう、わかっているんだけど、わかっていないのかもしれない。

 

 

 

 

 

だから、わたしは書きたいし表していきたいし、表していかなければいけない。

じぶんのために、わたしのために。

やらなければいけないと思っている。

 

あの人が言うように、書かずに出て行ったらボロボロだ。ボロボロになるだけだ。

 

卒業から今までを表すということ。

わたしがやるのはそれだけ、なんだ。

にんげんのくそみたいな欲のせいで

今わたしはこんなに苦しんでいるのか、

と思うとまだ笑えるけど、

無意味ではなかったと意味付けるのは承知した上で、

それでも書き残していきたい。

じぶんのお守りとして引っさげる相棒にする覚悟である。

生半可なものじゃないと思っているところもあるけど、つらい、しんどい苦しいしにそう。

 

 

 

 

度胸を据えて、

というのはそういうことなのでしょう。

 

 

 

 

さあさあさあ11月も、試し試されるわたしでいよう。

 

 

 

 

 

視野を広げてコンパクトに。

んなもん、できねーわ!

 

 

 

 

 

 

 

 

おとなになるということ?

 

 

居てくれるだけでいい

 

 

 

 

 

ほんとに

そのとおりだな、と思った。

 

 

そろそろ

このつらさが身に染みたものになってきた

 

 

生きてる〜〜!!!!!

って感じ。

生きてる、という感じめっちゃしてます。

しにそうだけど。

twitterでは才能がないだのもうやめたいだの言ってる人といますが、、

うぅら!!お前なんかより何百倍も苦しいわ!と言ってやりたい、おとなげなく。

 

 

 

ちゃんと向き合おうとすれぼするそど

泣きそうで、発狂しそうで、

苦しい。

 

まあ、泣きそうで発狂しそうになってからが

ほんもの。という感じもするが。

 

 

 

 

こんな苦しさも人生さいご、

だと思って

有り難みとともにいたい。

 

 

 

 

なんでこんなに苦しいか、

と訊かれれば

ひとりで生きていないからだと思う。

だれのためにかくか、

だれにどう見られたくないのか、

どう見られたいのか、

だれと比べられたくないか、

何を守りたいのか、

 

有り難い苦しさかもしれないが、

今はそう思えない。

 

 

欲だらけだし。笑

 

 

ちっぽけだなーーと思うけど、

ちっぽけなりにめちゃんこしんどいなー。くっそー!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

他者が現れてくること

苦しみも関係していること

あれ、みっつめ忘れた

 

 

 

 

 

 

💐

 

 

 

9月最後の日

 

 

 

 

 

頑張るしか道のない人に

頑張ることしかできない人に

がんばってね

と容赦ないことばなんて、

投げかけられない

なにか、励ますことができることばを

少しでも支えることができることばを、

と思って、もう今が

きてしまった。

 

わたしにできるのは、ワインをそっと

トランクに積んでおくことぐらいだ。

 

「生きているだけで感謝。」

だけを添えて、見送った。

 

誰もいない部屋に帰って

さびしい思いが少しでも癒えることができれば、と

 

 

行ってくるね

と 少し見えた顔は歪んでいたけど、きっとそれも彼女なりの決意と覚悟なのだと思う。

三年半、終えたら、四人でハワイ行こう

なんて昨日は言っていた。

 

 

 

 

 

人間、希望があれば生きていける。希望がなんであろうと。

 

 

 

 

わたしもな。

 

 

 

 

 

 

明日から神無月。

 

 

 

 

 

 

 

 

おびえ

 

 

意味のないおびえ。

わたしだって、意味のない、そう思っていた。

 

 

昨日は、わたしの人間としてクソなところしかだしていない。笑ってしまうくらい、、笑っている場合でもないのだが今はもう。

 

 

今日は書き直しを試みて、議論の場に参加していきたいと思う。

 

 

対決。

主体

 

 

 

どう見ているか、という自覚は

つねに、あちらのどう見ているかという自覚に

支えられていると思う。

見られているという支えにじぶんを置いて

目の前の他者を見ていけるのだと思う。

 

 

 

 

 

教室のできごとを語ったときと

今わたしがどういう状況なのかをNIに話したとき。

 

どちらもどうでもいい場ではないところで、どこか逃げだしたい気持ちもあわせ持ちながら、、それでも真正面からぶらさずに目を見てくれているという、その時間が最近では1番新鮮だった。

そのなかで、わたしはわたしをだせていけていた。安心感と簡単に言っていいのかはわからないけれども。

 

 

 

 

 

人から教室の実践をきくのが面白い、と言ってもらえて、やはりわたしは心揺さぶられた教室の実践を語るのは好きだと実感したような。再実感。かな。

エピソードを語ることは難しい。欲張って全てを語ろうとすることはナンセンスである。33人を語ることはただの波のない演劇みたいになってしまう。

誰かをピックアップすること、

その人を語ることが他者をも語ること。

その人を語ることは、

どういう状況や場のなかのその人なのか、

その状況や場に何をどう表しているその人なのか、

その人の表れが他者はどう見ているか。

 

その人をどう語っていくということこそが、エピソードであり語る主体性であり、それが生々しい形で社会に何かを差し出せるものになっている。のだと思いたい。

 

 

 

 

 

 

 

見ている主体。

見られている主体。

 

 

 

その自覚。気付き。

 

 

 

ケアということばがゆたかになるのはそこからだ。

 

 

 

 

わたしもまた誰かを見ているのだ、というところに自覚的でいたい。

 

 

 

 

 

 

ほいな。

 

 

バンジージャンプ

 

 

 

のようなものだ。

それが始まるのは、じぶん次第。

えいやあっ

て、踏みだしていくのは、じぶんだけだ。

 

 

 

 

 

苦しいけど、

たぶんたのしい7月の始まり

なのも、わかっている。

かも。。

 

 

 

 

いろんなひとをクソ呼ばわりしながら、

1番クソなのは

わたしである

ということも、わかっている。

 

 

 

 

 

とにかく、ふ みだしたい。

 

 

平成最後の夏バテ

 

 

 

 

変換誘導でいい感じになったので、

タイトル。

 

 

 

 

 

苦しいけれど、

こうして、こうやって

ぐじゃぐじゃもやもやしているものが何事かもわからぬまま生きていられるのが幸せだなと思う。苦しい、ともがけていること自体、これからの人生に希望を抱けていることだから。

 

 

 

 

 

 

 

でも、このまま終わりにしまってはいけないと思えてもいる。有り難くもそういうプレッシャーのなかで生きていられているのだから、形に残したいなと思う。

変なプライドもあるし周りの目を気にしないことなんてやっぱり不可能だけど、それさえも含んだ拙いすぎる わたし を見てもらおう。

 

 

 

 

 

 

こんな真夏日がくると、

寂しくなるな。

秋よ、やってくるなよ。

 

 

 

 

 

 

さて、がんばるか