主体

 

 

 

どう見ているか、という自覚は

つねに、あちらのどう見ているかという自覚に

支えられていると思う。

見られているという支えにじぶんを置いて

目の前の他者を見ていけるのだと思う。

 

 

 

 

 

教室のできごとを語ったときと

今わたしがどういう状況なのかをNIに話したとき。

 

どちらもどうでもいい場ではないところで、どこか逃げだしたい気持ちもあわせ持ちながら、、それでも真正面からぶらさずに目を見てくれているという、その時間が最近では1番新鮮だった。

そのなかで、わたしはわたしをだせていけていた。安心感と簡単に言っていいのかはわからないけれども。

 

 

 

 

 

人から教室の実践をきくのが面白い、と言ってもらえて、やはりわたしは心揺さぶられた教室の実践を語るのは好きだと実感したような。再実感。かな。

エピソードを語ることは難しい。欲張って全てを語ろうとすることはナンセンスである。33人を語ることはただの波のない演劇みたいになってしまう。

誰かをピックアップすること、

その人を語ることが他者をも語ること。

その人を語ることは、

どういう状況や場のなかのその人なのか、

その状況や場に何をどう表しているその人なのか、

その人の表れが他者はどう見ているか。

 

その人をどう語っていくということこそが、エピソードであり語る主体性であり、それが生々しい形で社会に何かを差し出せるものになっている。のだと思いたい。

 

 

 

 

 

 

 

見ている主体。

見られている主体。

 

 

 

その自覚。気付き。

 

 

 

ケアということばがゆたかになるのはそこからだ。

 

 

 

 

わたしもまた誰かを見ているのだ、というところに自覚的でいたい。

 

 

 

 

 

 

ほいな。