目を逸らさない。

 

かなり、くるしい。

 

社会から隔絶されたようなところにいるならば、もっととことんと、わたし を、わたしという人をわかりたいのに、わたし にかむかふ ことができていない。

 

わかるなんてできっこないのに、そんなめっそうなことをやろうとしてしまうから、いろいろ鬱々気味になってしまう。

 

でも、むかえていくことの先に見えるものがなんとなくわかるから、のぞんでしまう。

 

わたしはそういう人になりたい。

 

そのためには、ばかげたプライドやおかしな意地のようなちっさくてうじゃぐじゃしている感情のようなものは身につけていてはいけないと思う。

 

明日から仕事かぁ〜の人は明後日は休みだぁ〜てなる。それもよきだぞ、社会人よ。

いまのあんたをたのしめよ、と思う。

 

そのままわたしへ言ってやりたい。

 

 

自己と他者、間身体性、からだ、可傷性、じか、表現、応答、

 

 

このあたりだろうか。

これらを文章へ。

 

 

偉大だと思う。

 

 

ことばにしていくというプロセスをたどるだけでわたしは鍛えられている。

 

それを忘れんなよ。思いあがるなと思う。

 

 

それでも、個性、個性、自己形成。

 

 

なにか、じわじわ染み込んでいるものがあるのだろうか。

 

なにも、まだ、味わえていない気がして、

 

だから、くるしいのだ。

 

 

 

 

 

もう、6月も終わるとか、です。

 

今日のバイトで、立っていられんほどの痛さと吐き気と目眩を味わいました。味わいたくないものもまたそれも、経験である。

帰ってきて、肉を食べて元気になった。

 

明日に備える。

テンチョーとテンチョ'sブラザーと三人デー。今日もだけど。恥ずかしく悶絶しているすがたを見せて、たぶん関係性もよりgoodになっているのだな、恥ずかしいことをさらけ出してしまうアイロニー

 

やはり、気の遣い方が絶妙なのだ、わたしにとって。好きになってしまうのもわかるなと、思った。遠くから、わたしたちをながめているだれかとして、今日は思えた。ぜんぜん寂しくはな。むしろ今の状況にこの上なく心地よい居心地を感じている。やったあ。

 

この人らと過ごす時間も大切にしたい。

 

 

キモチがまえむきになってきたところで、、、

 

 

 

 

 

ほいな。