選んでゆく、ということ。
6月である。
雨が降って、紫陽花が一層きれいに見える。
堀川から帰ってきて、
やはり、気を遣う飲み会は苦手であり、来年は一人晩酌はやめたいなとか密かに願ってたりするのだが、、やはりそれでも毎年のように?睡眠欲やら食欲が乱れての今週スタートである。。
寝れないと、いろいろと乱れるので、やはり生きる根底は寝ることだ、わたしの場合。と再認識したよ。
で、四年生とともに同じテーブルを囲むことをなんでわたしはこんなに拒むのか、考えてみてる。いや、そんな考えてもないけど、そういうわたしがいるということについて、ここに置いておくつもり、というだけのことであるが。
こんなじぶんもいるんだと思うくらいの、人への向かわなさ。迎え入れなさ。
同期との、オムライスや洒落乙公園での時間は惜しいくらい、、終わってしまうのが惜しいくらい尊い経験だった。
三人の、三人だけの場がいいのだと思う。
ここにきて、この一年をかけて、人を、場を、わたしにとっての何かを、選んでいけるようになってきている感じがあり、
それを思った日で、ちょっとだけ、わたしにとっての嬉しさを感じた日だった。
人に向かうことについて、その自己犠牲的な面を占めていてそれをこなしているようなところに、安心していたりそういうじぶんだから肯定的に認められていたところがあって落ちつけて(生きて)いけた、そういうわたし。
ではなくて、何か、生きていくということについて、わたしはどう生きていくのか、生きていきたいのか、というところで、何か、過去に縛られていたものは鎖だったけれど、今はじぶんを底上げしてくれるようなどっしりとした何かに変わりつつあるような気がする。
選んでいく。
ということについて、わたしにはそういう意味があるのだと、わたしの生について、すこし立ち止まってみた。
しかし、そうは言っても寝不足感がある。
無意味に甘いものを欲する悪い兆候がチラチラしてきて、こわい。
わたしの生について、書き留めることも、そう言葉にすることで、何にもなっていなくても、そうなっていてくれという、ただのわたしのあれかもしんない。不安さとか、こわさだけなのかもしれない。
まあいいや、それを書き留めるわたしの状況でしかない、書き表そうとしなければ、その状況すらも立ちあらわれてこない。
何かを書いていくうちに、生きることについてその感性みたいなものが研ぎ澄まされてゆく感もある。
まあいい。何か書いて、わたしもわたしを越えてゆきたい。
ふぅー。日々を精一杯生きるのみやな。
ほいな☂️☕️